なぜ日本の性教育は遅れているのか(2) ~1970年代から2000年ぐらいまで

前回の記事では、日本の性教育が実際に遅れていることを説明しました。では、なぜ遅れているのかという原因については、2003年の「七生養護学校事件(ななおようごがっこうじけん:東京都日野市、現東京都立七生特別支援学校)」や、2018年に東京都足立区の公立中学校で行われた性教育の授業に対する都議の問題視および調査申し入れなどが、日本の性教育を遅らせる一因になった、という意見をよくみかけます。

くわえて、60年代〜70年代世界中を席巻した性解放運動に続き、HIV/AIDS(エイズ)パニックによる感染防止のために性交時に気をつけなければいけないこと(たとえば避妊具をつけるなど)を教育する機会の要請や、女性の望まぬ妊娠や中絶の増加なども原因でした。

避妊具を教え、正しい使用方法を教えることは不必要なことなのか

ですが、2022年の8月時点から振り返ってみると、われわれが思うに「政権与党(つまり自民党)と文部科学大臣の考え方が世界的に遅れている」ということ、そしてなによりも、自民党が地方でも多くの議席を占めていることもあり、地方議会で反共・極右の意見が多いということもあり、地方自治体の長や教育委員会までもが、忖度(そんたく)して、自民党中央の意見に、右倣えしているという状況があります。

【参考記事】2022.8.12付FLASH記事
「安倍元首相死去で学校に「半旗掲揚」求めた自治体が続々「忖度が蔓延している」明石市長がズバリ」

この記事では、それぞれ整理しつつ、2000年あたりまで詳しく見ていきましょう。

L.A.カーケンダールが果たした日本の性教育への影響

1960年代、1970年代におけるさまざまな性解放運動

世界で「性(セックス、ジェンダー、セクシャリティ」にまつわる運動が世界各地でいろいろなかたちで起こりました。1963年にアメリカでベティ・フリーダンが「新しい女性の創造」を出版し、それを基点としたといわれる第二波フェミニズム運動(ウーマンリブ・女性解放運動と捉えられることも)、イギリスでは、1970 年に始まった女性解放運動全国会議が全土の都市で開催。1968年以降のフランスにおける女性解放運動(フェミニズムであることを否定)や、そこから派生した女性同性愛者のみのグループ「赤いレズビアン」を結成したりなどしました。

また、アメリカではゲイであることを公表した人のなかで1977年初めて大都市の公職に選ばれたハーヴェイ・ミルク。また世界中を席巻したヒッピー文化カウンターカルチャーには、性の解放の雰囲気が充満していました。

ヒッピーカルチャー

【参考文献】

L.A.カーケンダールが大きく影響を与えた日本の性教育

L.A.カーケンダール(1903〜1991)は、M.A.ピゲロウに師事し、その後、性教育をライフワークとして本格的に取り組み、アメリカ各地と日本の性教育発展に尽力しました。とりわけ、アメリカの性教育運動の高まりを受けた彼は来日し、アメリカを真似て、大阪市立大学を定年退職した朝山新一、松村博雄、間宮武らと1972年(昭和47年)「日本性教育協会」を設立しました。文部大臣(当時)認可の団体で、欧米をはじめ、世界各国の諸団体、学会と連携することを目的としていました。

ちなみに、L.A.カーケンダールは「セクシャリティは”機能”として外的環境へ表出される現象である」と概念を晩年に整理。彼の死後の2000年、この概念は世界的にWHO/WASの「セクシャリティ」概念として世界的に合意されることになります。

【参考文献】

日本の性教育ムードの高まり

それまでの日本人女性の“抑圧的な純潔教育”を改革すべく、村瀬幸浩氏もその半生を性教育に捧げました。1982年には今の「一般社団法人”人間と性”教育研究協議会」を立ち上げます。一方で、1980年代はHIV/AIDSパニックが世界中に起こり、「正しい性教育」が社会的にも認知・要請され、性教育ムードが高まり、性教育に関連する団体が次々に設立されました。

そうして、日本では1992年「性教育元年」と呼ばれる重要な出来事が起こります。学習指導用要領が改定され、小学生から「性」を教えることが求められました。同時に性教育の研究事業が盛んになっていきます。各学校で独自の教材や教え方が開発されたのです。

同時に、1990年代は世界で「多様性」の時代と言われるように、「セックスとジェンダー」の違いや「セクシャリティ」の認知・理解が広まります。性は男性化か女性の二者択一ではなく、グラデーションのように多様性があるものと捉えられるように変わっていったのです。

レインボーフラッグ

男女共同参画のバックラッシュ?七生養護学校事件。

時を同じくして、社会的に男女の雇用機会均等や仕事と家庭の両立に関する制度など、基本的な枠組みが日本でも国連を中心とした国際的な動きと連動して推進されていきます。

とりわけ、それまで政令による時限組織であった男女共同参画審議会が格上げされ、恒久的な組織に変わります。それが、1997年のできごと。それまでの審議会の任務を引き継ぎ、かつ売春対策審議会の任務を発展的に継承する「男女共同参画審議会」が設置されたのです。

一方、保守派の政治家たちはこのような性教育のバックラッシュ(揺り戻し)を進めます。そして2002年以降、学校の性教育に対する「ジェンダー教育バッシング」「性教育バッシング」が起き、性教育の内容に対する厳しい抑圧と規制が強まります。なお、このバッシングには統一教会と勝共連合、産経新聞、一部の大学教授などが全面的に協力してキャンペーンを張りました。

引用:「性教育はどうして必要なんだろう?」(浅井春夫共著 大月書店 P159より)

そして、性教育バッシングの象徴的な事件が2003年に起こります。それが「七生養護学校事件」です。都議会議員から端を発した事件は、当時“極右”の呼び声高い都知事“石原慎太郎氏(故人)”の支配下で、悪名高い「10.23通達」で、入学式・卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施を強く推奨していたのもこの時期です。

次回は「七生養護学校事件」と、それ以後の自民党などの政局の動きとともに国際的な性教育の動きを紹介します。

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